昨年、年の瀬も迫る頃に日本でも出版された『ザ・コーポレーション』の帯に「2005年夏日本公開予定」と書いてあったので上映を心待ちにしていた。遅いぞ!アップリンクさん。待ってたんだから。
2003年、日本でCSR(企業の社会的責任)がブームになり、多くの企業がCSR報告書を発行し始めた。しかし、そこに掲載される情報は企業が自ら選んだものだ。都合の悪いことはあまり書かれないし、書いたとしてもどうしても自社の立場を正当化するものになる。この映画を見れば「何が書かれていないのか?」、「なぜ個々の努力が全体としては成果をあげないのか?」そのことが鮮明に見えるだろう。一部の識者は市場こそが最も民主主義的である、という。まず、その考え方には根本的に疑問を呈したいが、市場に判断を委ねるならば消費者・市民には商品や企業の情報が適切に開示されなければならない。情報の非対称性を埋めなければ、選択などできないだろう。結果、ある製品がどのようなプロセスで製造されようとも消費者は価格とブランドイメージだけで購買を決めることになる。
『ザ・コーポレーション』を読んだ際、私は全体を貫く著者の意見を快哉した。日本では長年、企業の私物化が蔓延ってきたためか、企業システムというものへの構造的な理解が進まなかったように思う。企業が問題を起こした際、もちろんその時点の経営を担う者の責任は重いが、一個人の資質や考え方に原因を帰してしまうと問題の構図が見えなくなる。より大きな問題は「構造」だからだ。『ザ・コーポレーション』は企業システムの中で、経営者が誠実であろうとしても、社会全体から見れば企業が問題を起こしてしまうことを書いている。映像にするとシステムとしての企業が持つ根本的な問題がよりはっきりと見えてくる。
ただ、映画サイトへのトラックバックを見る限り、映画を見ただけではどうやら「何が描かれているのか」がわからない人も多いようだ。知識があるように装っている人であっても、あまりに無知であることに情けないやら呆れるやら。「企業のすべてが悪いわけではない」というような言説には参ってしまう。そんなことは言うまでもない。監督・原作者の意図ぐらい、納得しろとは言わないが理解してもらいたいものだ。
日本でもスーザン・ジョージやチョムスキーらの翻訳本は多数出版されているし、内橋克人、奥村宏といった左に属さない人たちによる企業・システム批判も十分に行われている。だが、そうした著作を一度も読んだことのないか、都合よく解釈している人があまりに多いのだろう。生まれた時からサングラスをかけていたとしたら、自分がサングラスを通してしか物事を見ることができないということに気づかないということか。
映画の中で何度も登場するインターフェイス社のCEOレイ・アンダーソンは、環境ビジネス、CSR分野では知らない人がいないほどの有名人だ。彼の苦悩と問題意識は、システムにこそ根本問題があることを如実に示す。映画の中で彼に脚光が当たっている。その理由は映画のパンフを読んでいただくことにしよう。彼を、ある種のヒーローとして描いた理由がわかるであろう。
日本ではいまだに企業をイエ、ムラとみなす感覚が残っており、欧米や新自由主義の狩場となった途上国のようには反企業運動は盛んではない。不買運動を私は「市場」を活用した行動のひとつだと捉えているが、しかし日本では奏効しない。自らのイエを壊す、壊される感覚なのだろう。物事を構造的に理解する見方も日本では不十分である。
私は日本の企業社会は、ムラを出た人たちが集う新たなムラであると思う。ムラでは掟は絶対であり、掟を破った者は村八分にあう。かつての親方日の丸は崩れてきてはいるが、自己と自己が所属する組織との同一化は根深く残る。従業員としての自分と、個としての自分を併せ持てればよいのだが。
映画をみて、単に企業叩きだとは思わないで欲しい。自己と組織を同一化した価値観でこの映画を見てしまうと、映画の真意が伝わらない。真意は?映画をみても十分わかるが、パンフにある監督マーク・アクバーとジェニファー・アボット、そして原作者のジョエル・ベイカンの言葉によりはっきりと見て取れる。
この映画をみた日本の人々がどのような反応を示すか、そこに私は興味を持つ。かつて、私も大企業の技術者であり、自分が開発した技術が世の中に貢献すると信じていた。また、どのような問題があっても技術で解決すべきと確信していた。それが技術者の本道だと。しかし、ミクロな成功のほとんどは、マクロな弊害をもたらす。それも想像を超える犠牲を伴って。それを認めるのは怖かったし、いったん自我が崩壊するような鬱に落ち込んだことを思い出す。思考の縛りが外れた時、問題をシステムとして捉えることができる。ムラの掟と価値観に必ずしも自分の個性が従属しなくてもよいのだとわかるまでは時間がかかる。
システムをコントロールするためには?最終的には法である。しかし、その法を実現するのが難しい。立法府の不作為も現在のシステムを守ることになる。不作為を持続するために政界にカネがばらまかれる。そして作為としては規制緩和、民営化に象徴される公的セクター、人々の空間の市場化が実行され、どん底への勝者なきレースが今後もしばらくは続くことになろう。
だが、世界には様々な萌芽が生まれている。いち早くアメリカの狩場となったラテンアメリカでは、新自由主義を追い出し、「社会自由主義」ともいうべき草の根の連帯経済が芽吹いている。完全に狩場となったが故に、人々の気づきも早かった。いや、彼らはずっと搾取されてきたことを知っていた。
もうひとつの世界は可能だ。世界社会フォーラムで共有されているその言葉を日本でも実践していこう。私はそれを「日本に緑の政治をつくる」ことで実現していく。