この本は6章構成。1〜5は事例の紹介、問題の指摘と掘り下げに割かれ、最終章で「いかに企業による社会支配を変えていくか」が書かれている。反グローバリズムの市民運動に関っている者ならば、(著者ベイカンの問題の掘り下げや収集、紹介されている事例はどれも興味深いが)前5章は必ずしも読まなくてもよい。ただ、6章だけは読んでおきたい。お勧めする。最終章はタイトルこそ「因果応報」となっているが内容は、企業をソーシャル・ガバナンスの下に置くために必要な法制度や考え方を示している。その論の中で、反グローバリズム運動の旗手であるヴァンダナ・シバやナオミ・クラインの考え方も批判している。名前は取り上げられていないがスーザン・ジョージらも彼の批判の対象であろう。
「企業をこの世からなくす」というような夢物語を語るのではなく、現実的な規制手法を提案している。
私も同感なのだ。
その最大の理由は、反グローバリズム運動が政治への直接的な関与についての言及と行動を軽視している点だ。私もムンバイでの世界社会フォーラムに参加した際に同じことを感じた。(その時点では私は、参院選への候補者擁立の運動には関っていたが、今回自分が立候補することは考えていなかった)
反グローバリズムの運動は、明確には謳わないまでもその大半が議会の外で行うことを前提としている。多くが政府の力を軽視し、企業の本社前や省庁前、国会前などの外側で展開することを前提としている。こうした運動が「企業の活動を規制する法制度の整備」を求めていないというわけではない。ロビイングや署名運動も政治に関与する運動ではあるが、それらは間接的な運動である。
では、誰が企業の行動を規制する法律をつくるのか?自動的に「理解ある議員」が生まれも、増えもしない。もちろんNGOの運動が世論を動かし、結果として「理解ある議員」が当選する、ということもある。だが、議員をつくる運動とNGOの運動は、質が異なる。ロビイングで政策誘導する活動も必要だが、NGOは民主的な篩にかけられてはいない。NGOの意見を重要視しすぎることは、(要求の中身はまったく異なるとしても)形態としては経済団体などの利権団体と変わらない。民主的正当性を担保するのは、いかにいまの実態が腐っていたとしても「選挙」しかない。選挙による選抜を勝ち抜くためには、ネット選挙活動が解禁されたとしてもアウトサイダーとしての空中戦を展開では限界がある。自分とは異なる人々の中に入っていく、共に生きながら説得し、共感を獲得していくというドブ板が欠かせない。
いや、ベイカンも「議員をつくろう!」と直接呼びかけているわけではない。だが、彼は市民社会のガバナンスの下に政治を置き、そしてその下に企業を置くことを明確に主張している。残念ながら法治国家において、強制力を行使できるのは公権力しかなく、その施行のルールは法律となる。市民は不買運動、意見する株主として、また企業がひた隠す非対称情報の社会への伝達など対抗手段はあるが、それはどれも決定打にはならない。ベイカンはそのことを論理的に主張している。私が昨年一読して快哉を叫んだのはベイカンのこうした主張があったからだ。
ベイカンの提案は、本では論理的に積み上げられているが、残念ながら映画では省かれている。映像化するのが困難だったからであろう。企業の不祥事や、構造的欠陥については「証言」に「事例」を混ぜて映像化できるが、「いかなるルールが必要なのか?」という提案を並べるには映像は不向きだ。アピール力のある映像にはならない。
映画を観て「ビックリ」、「ショック」だった方にはぜひ原著を読んでいただきたい。面倒なら6章だけでもよいので。