2006年04月05日

サラ金問題を考える

ぼくはサラ金産業は必要悪に留まらない、存在自体が社会悪だと考えている。サラ金業者側からみれば、需要があるのだからビジネスとして必要とされていると強弁するのだろうが、ぼくはそうした意見には納得できない。
サラ金がなぜ今、跋扈しているのかということを少し掘り下げて考えてみたい。

まず、サラ金を考える上で、基本的なデータを確認しておこう。
消費者金融連絡会が毎年発行しているタパルス白書の2005年度版に、サラ金の融資規模の変遷が詳しく記載されている。消費者信用産業にはクレジットカードなど、いわゆる「サラ金」以外も含まれる。ここでは「消費者向け無担保金融業者」のみに批判の対象を絞る。

報告書を一読すると、90年代初頭のバブル崩壊以降にサラ金が急成長したことが明らかである。
1990年の消費者向け無担保融資の総額は約3.2兆円。
それが2004年度には約12兆円と約4倍もの急激な伸びを示している。

この間は、「失われた10年」といわれる低成長・マイナス成長の時代だった。一般市民・家計の収入は伸びておらず、高金利の融資を返せるだけの収入の伸びはない。むしろ、貯蓄を切り崩し、貯蓄ゼロの世帯が増えていった時代である。

そのような時代に高金利の金融サービスが増えるとはいったいどういうことを意味するのだろうか?
順を追って考えてみよう。


お金を借りれば必ず利子をつけて返済しなければならない。企業が融資を受ける場合、その資金によって事業を拡張したり、研究開発に資金を投じて売上げを拡大することが前提となる(これまでの日本の場合、実際には大企業は借り得であり、返済ができなくなるとバンザイ!債権放棄を迫るのが常であった。よって厳密には返済などされていない)。
しかし、本来は事業拡張が前提となっていることは確認しておきたい。

つまり、企業の場合、お金を借りても収益を拡大させることで返済できる構図がある(しかも、現在の資金調達コストはべらぼうに安い)。

では、家計の場合はどうか?
簡単に結論を述べれば、サラ金の高金利以上のスピードで収入が増えていかないと家計は必ず破綻してしまう。しかし、年率20%を超えるような収入増を私たちが達成できるだろうか?
そのようなとんでもない収入増など通常はありえないので、一般的な金融業としてサラ金は本来は成立はずがないのだ。

遠まわしになるが、サラ金の跋扈はいわゆる「日本型経済・終身雇用モデル」が終わったことの反映なので少し説明にお付き合いいただきたい。

日本の銀行がいわゆるメインバンクとして日本経済に君臨した理由は、銀行による融資先企業のガバナンスが目的ではない。一番の狙いは、系列の企業が関係する取り引きの過半をメインバンクの口座を通じて行わせ、預金総額の拡大をすることが狙いのひとつだった。
そして、重要なもう一点は、「従業員の預金およびローンを囲い込む」ことにあった。住宅や自動車、教育ローンや振込み手数料などから得られる収入を、すべてメインバンクに集中させること。それが真の狙いだった。
このことを暴いたのが以前、(社)金融財政事情研究会に属していたマーク・J.シャーの著書『メインバンク神話の崩壊』だ。
何年もの銀行関係者へのインタビューを通じて、企業統治者としてのメインバンクの虚像を暴き、真の狙いを炙り出した重要な書である。

サラ金が跋扈するようになるまで、家計も銀行から融資を受けるのが一般的だった。
日本型の年功序列賃金、終身雇用があったことで、それなりの規模の企業に勤めてさえいれば年齢を重ねるほど収入が増えた。かつ日本経済の長期に渡る成長と護送船団方式により、系列の中にさえいれば、倒産・失業による貸し倒れをほとんど心配する必要がなかった。
この時代、勤め先企業のブランドが融資適格を決めたといってよい。住宅ローンを組んだとしても、まずは安心して収入増が見込め、人生設計ができたので、ムチャをしなければ十分な返済計画を組むことができた。
つまりこの時代、個人は必ずしも「リスクの高い」融資先ではなかった。

しかし、バブル崩壊以降、日本型の様々なモデルは変遷を遂げていく。大企業に勤めていたとしてもリストラで失職し、ローンを返済できなくなる可能性が出てきた。今も銀行が融資する際には勤め先の規模や安定性は重要な審査ファクターだが、個人への融資はリスクを伴うものになった。

そして、グローバル経済の進展により、大企業は国内から調達をしなくても済むようになっていった。「先行して大企業が豊かになり、その後中小・零細企業に富が滴り落ちるように豊かさが広がっていく」というトリクルダウン効果はグローバル経済が進展するほどに減退する。中小・零細企業の従業員は、長年勤めても給料が上がらなくなっていったわけだ。

個人は返済能力の乏しい、一種の破綻懸念先となった。
個人への融資は金融機関にとって「リスク」とみなされるようになったわけだ。
融資先がリスク対象なのだから、リスク分の金利が上乗せされる。リスクプレミアム。
だからサラ金の金利はべらぼうに高い。

融資を返済する場合、利子の増殖速度を超えた収入の増加がなければ、必ず返済に滞るようになる。多重債務に陥ったら復活は奇跡でも起きない限りありえない。モノの取り引きを伴う実体経済での成功では、サラ金の高金利の返済には対応できない。ライブドア関連のことを書いた過去のブログでも触れているが、マネーゲームで成功する以外に膨大な富を蓄積する方法はないのである。実体を伴う経済活動は、どれも生産性の上限があるからだ。マネーゲームのみ、その上限がない。

サラ金や銀行など金融業では、融資を資産として計上する。しかし、それは額面上のことにすぎず、金を貸したからといって融資先に資産が増えるわけではない。特にサラ金から借りなければならないほど資金繰りに行き詰った場合は、せいぜい繋ぎ資金であるかランニングコストとして消えていく。資産など増えやしないのだ。

「負債は富の裏返しではない!」と現在の金融制度、なかでも複利を徹底的に批判したのはエコロジー経済学者として名高い元世界銀行のエコノミスト、ハーマン・デイリーである。ぼくはデイリーの意見に賛同する。複利をどこかで規制しなければ、負債によって人間や環境が潰れてしまう。

デイリーに先んじて同様の意見を述べたのは、ノーベル化学賞受賞者のフレデリック・ソディであった。しかし、日本にソディの名とあまりに重要すぎる彼の提起を知っている人がいったい何人いるだろうか?




サラ金の高金利により膨らんだ借金を一般家計が返せるわけがない。そのことははじめからわかっている。潰れる人が多数出ることを前提にして成立しているのが「消費者金融業」なのだ。
もちろん、複利で利子が急増する前ならば返済はなんとか可能だ。だからきちんと返しきることができる人もいる。
だが、返済が滞れば。。。

もうお分かりだろう。返せるはずがない借金を返させるために、彼らが取る手段がどうして暴力的になるのか、が。裏社会とどうして彼らが組まなければならないか、が。

ぼくはサラ金は社会悪であると考えている。

銀行は、リスク対象への融資を自ら行わず、サラ金業者に金を貸し込んで高金利での融資を代行させているようなものだ。そしてその上前を撥ねる。自らは手を汚さず、おいしいところだけ持っていく。
日銀の量的緩和政策で有り余る元手を銀行は手にしたはずだが、ぼくたち一般市民はろくな融資を受けられない。奴さんたちは貸し先がないから国債で儲けたり、金貸しが金貸しに金貸すことで儲けてきた。量的緩和がサラ金地獄をいっそう加速させてきた、と言えなくもない。

サラ金業者に「倫理」を期待しても無駄である。だからこそ上限金利を厳しく定める法制化が急務であるが、そうはさせじと自民党へのロビーを業界は強めている。その流れに自民党は喜んで乗っている。

そう。巷でいわれる 小泉改革=格差拡大 は半分正しく半分間違っている。これまでの格差拡大は必ずしも小泉首相の責任ではない。ここでは詳述しないが現在の社会・経済システムを放っておけば格差が拡大してしまうのだ。小泉、竹中ら、舛添らが許しがたいのは格差を縮小させるどころか積極的に拡大させることを目的としているからであり、彼らはそのことがもたらす弊害など取るに足らないと考えている。積極的な格差拡大政策こそが日本を救うと考えている人たちだ。
なぜ政権担当者はかのような格差を生み出す政策をよしとするのだろうか?その疑問の解を確認したければ、いわゆる「厚生経済学」の本を一読してみるとよいだろう。賛同はできなくとも納得はできるだろう。



本当は公権力によって社会悪を制しなければならない。
だが。。。

あの人たちを選んだツケを、いまぼくたちはかぶっている。
posted by ichirok at 16:14 | TrackBack(0) | 経済・産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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