2006年12月18日

ニコラス・ジョージェスク=レーゲン その1

既知の論理体系を積み直すことで、それまでの体系を根底から覆すような仕事。そんな仕事をしたのが、ニコラス・ジョージェスク=レーゲン(Nicholas Georgescu=Roegen, 以下NGRと略す)だ、といったら言い過ぎだろうか。

今年はNGR生誕100年にあたる。

このブログでもNGRの名前を度々、取り上げてきた。
持続可能性と経済について深く言及しようとしたら、必ずNGRに触れることになる。少なくともNGRの間接的な影響を受けるだろう。みどりの経済論は、環境に配慮した経済論、程度に留まってはならない。環境経済学のようなミクロ経済学の延長ではいけない。ミクロ的な手法ももちろん不可欠だが、環境経済学は成長の限界になんら言及することができない。

これから語られるべきは、“環境”ではなく、“持続可能”経済論でなければならない。

しかし対案が単に私有化の禁止と社会主義化ではあまりにお粗末である。社会主義“的”な主張が不当な扱いを受けている現状を見直す必要があるが、私有を排すればうまくいくという意見はぼくには思考停止に思える。

対案は、持続可能な経済活動の(特に物質フローの)条件を明示し、いかに現在がその条件と掛け離れているのか明晰な分析とともに、変えていくための処方箋を提示するものでなくてはならない。
その際、まずは参考にすべきがNGRだと思う。

だが、日本語で読めるNGRの著書は次の2冊しかない。
1) 『エントロピー法則と経済過程』みすず書房 (1993年、2006年9月復刊)
2) 『経済学の神話』東洋経済新報社 (1981年)
しかも、1)は定価で1万円を越え、2)は絶版となっている。古本でも滅多にみつからない。幸い、古書店をまわり2冊とも手に入れることができた。特に『経済学の神話』は、NGRの主張の要点が書かれていてオススメだ。もし見つけたら迷わず、買いですよ!

ぼくのような半可通者がNGRを評するのは、不相応ではあるが、NGRへの感謝を込めて記しておきたい。
「NGRの前にNGRなく、NGRの後にNGRなし」
と。

1971年にNGRの『エントロピー法則と経済過程』(邦訳の出版は22年後だった)が出版された際にある著名な経済学者が賛辞を贈った。

「ニューヨークの摩天楼が砂に沈む頃、一世を風靡するであろう」

この発言の主は、かのポール・サムエルソンである。
サムエルソンといえば、かつては経済学を学ぶ者ならば誰でも一度は読んだ『経済学(上・下)』の著者で、ノーベル経済学賞も受賞した経済学の大家である。業績の幅広さは経済学の範疇には収まらない。
そのサムエルソンがこれほどの賛辞を贈っているにも関らず、日本で経済学を学ぶ際にNGRの業績について学んだ者はごく限られている。主流派からみての異端とされる人たちにしかNGRは知られていない。

サムエルソンの先の賛辞は、NGRの論が荒唐無稽で、砂に埋もれてしまってもなんら差し障りのないもの、という意味か?その逆である。
サムエルソンがいかにNGRを高く評価していたか次の言葉からもわかる。
「学者中の学者、経済学者中の経済学者」
最大限の賛辞ではないか。このような言葉をふつう同業の学者に贈るだろうか?NGRの仕事がいかに並外れたものであるか伺わせる。

『エントロピー法則と経済過程』は、NGRがその前に記した『分析経済学』の序論を深め、拡大して論じた書である。『分析経済学』の序論について、サムエルソンは次のようにも語っている。
「この序論を熟考した後でなお自己満足に浸っていられる学識豊かな経済学者を私は許さない」

NGRを知らなかったとしてもサムエルソンの高名を知る者なら、それほどまでに評価した主張がどのようなものだったのか興味をもつのではなかろうか。しかし、サムエルソン経済学を学んだ日本の経済学者たちがNGRに言及することは、まずない。
そのサムエルソンですら、自ら贈った賛辞を自身の『経済学』の改定に反映させることはなかった。いや、ケインズを“馬でもわかる”ように説明したサムエルソンですら、NGRを新古典派総合に含めることはできなかった、というべきか。もしその仕事に着手してしまうと、前提の抜本的な再構築を余儀なくされてしまう。さすがにそれはできなかったのか。

小室直樹はサムエルソンからMITにて直接指導を受けている。『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイヤモンド社、2004年)にて、小室はサムエルソンを“天才”と賞賛しながら15人の巨匠のうちの一人として取り上げているが、天才を取り上げた章で、サムエルソンが賞賛した彼の同僚の仕事には一切触れていない(NGRとサムエルソンは同時期にシュムペーターの教えを受け、親交が厚かったらしい。NGRは計量経済学の大家でもある)。

それでは小室氏は師の許しをもらえないのではなかろうか。

マーク・ブローグの『ケインズ以降の100大経済学者』(同文舘出版、1994年)で、いちおうNGRは100人のうちの1人として紹介されている。
だが、その紹介の仕方は、NGRの主張をまともに受け止めたとは思えない。「敬意をもって受け入れられたけれども、すぐに避けられた」という。

それは、NGRの主張が取るに足らないものだったからなのか?
それとも、経済学はNGRの主張を吸収して再構築されたのか?

NGRの後にNGRなし。
NGRの最後の弟子である徳島大学の眞弓浩三氏と今年の物理学会でお会いした。その際、眞弓氏は「アメリカ経済学会でNGRの名前を出すことはタブーとなっている。経済学の世界で生きていけなくなる」と教えてくれた。
NGRはなかったことになってしまっている。ゆえにNGRの後にNGRはないのである。(主流派からは言及されなくなってしまったが、ハーマン・デイリーのような後継者はいる)

興味深いことに、近代経済学が前提としている「極大化の原理」を批判している勢力ですら持続可能性には関心が無いようだ。進化経済学、複雑系経済学の一派の本も読んだが、今後の経済学の主要テーマを持続可能性に置くつもりはからきし無いらしい。近代経済学の機械論的な前提には異議を唱えながらも、自らが進化・複雑系モデルで経済を語り続けることに疑問を感じないのだろうか。学問を実社会の最大の課題である“持続可能性”に生かそうという気概はないのだろうか。

「その2」に続く。
posted by ichirok at 03:39 | TrackBack(2) | 経済・産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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Excerpt: 「およそあらゆる科学の中でも、その出生日時と父親のこれほどはっきりしているものは少ないと言える。」[シャルル・ジード『経済学説史』(ケネー著 戸田・増井訳『経済表』岩波文庫より再引用)]  
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 「藤田君の理想は『保守』」−「(藤田)省三こもごも 1」−
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