日本語で読めるニコラス・ジョージェスク=レーゲン(Nicholas Georgescu=Roegen, 以下NGRと略す)の著書のうち、NGRの主張を骨子がまとまっているのが『経済学の神話』の第2章「2 エネルギーと経済学の神話」であろう。
直接間接にNGRが取り上げ批判している経済学者を挙げてみると、ジェヴォンズ、ワルラス、マルクス、レオンチェフ、マーシャル、ピグー、(フォン・ノイマン)、R.M.ソロー、ベッカーマン、ミル、他の章だがスティグリッツら。
いずれも経済学史上の巨人をぶったぎっている。切り方が容赦ない。これではマーク・ブローグでなくとも「敬意をもって受け入れられたけれども、すぐに避けられた」と評したくもなるだろう。エコロジー経済学者のハーマン・デイリーは『持続可能な発展の経済学』のNGR追悼論文の中で次のように言及している。
「エントロピーのスループットという概念はトロイの木馬だ。ひとたびその概念が本(注:経済学の標準的な教科書のこと)の中に入ることを許したならば、その概念の含意が隠れた兵隊となってこの教科書のほとんどすべての部分に攻撃を仕掛ける」
この説明を「すぐに避けられた」理由と解釈して差し支えないだろう。
NGRの容赦ない批判が、経済学の大元に向けられているがゆえ、またそれがトロイの木馬であるために“避ける”以外に自分たちの権威を守る方法がなかったのであろう。
経済学史上の巨人たちに対するNGRの批判をひとつひとつ取り上げつつ、NGRの批判を現代の観点で深める作業は“持続可能経済論”を発展させるために役に立つ。
ここでは日本におけるNGRの主張が、誰に、どのように受け入れられ、批判されたかを簡潔に確認しておきたい。
日本でも経済学者は総じて天才サムエルソンの友人の仕事を無視した。
新古典派総合の流れをくむ者や一般的な経済学のテキストを書いている学者の無視ぶりはかえって自分の無知ぶりをさらけ出しているわけだが、残念ながらNGRの主張が広範に知られているわけではないので、彼らの無知が晒されることはない。
中道左派、市民派的な経済学者・経済評論家の多くも、ぼくは彼らの主張は好きだが、NGRを斟酌することも紹介することもなかったため、ごく一部の人たちにしかNGRの知的遺産が引き継がれていない。内橋克人、神野直彦、金子勝、佐高信、奥村宏といった人たちの本を愛読している知人と話していても「ニコラス・・なんとかって誰よ?」という感じの反応がほとんどだったと記憶している。もったいない。(ちなみに世界の反グローバリズム運動の理論的支柱のひとりであるスーザン・ジョージは、自著の中でわずかにNGRに言及している。でも反グローバリズム運動で、オルタナティブを議論する際にNGRの名前が挙がった場面にぼくが遭遇したことはない。単にそのときの話題と直接関係ないからだけならよいのだが。どうなのだろう?)
唯一、日本で正面からNGRの主張を受け止め、批判を含め発展させたのがエントロピー学会に関る人たちだった。
いずれも、ぼくにとってみれば「先生」とつけなければならない面々の名前をあげるが、敬称は略す。
ぼく自身、NGRをこれだけ持ち上げておきながらも、その主張のすべてに賛同しているわけではない。
地球上の物質循環と自己組織化過程に関するNGRの理解には誤解もあった。とくに力学的な循環と熱学的な循環の混同が彼の結論を悲観に導いた。その悲観は熱力学第二法則により宇宙が熱死することへの悲観に近いか。現代社会の人間の経済活動は熱死とはいわないまでも低エントロピーの喪失と循環過程から汚染物質を排除できない環境を導くため、当たらずも遠からず。熱死でなく「(人間が持続的に生存できるだけの)環境の死」。
物理学者の槌田敦はNGRの主張を積極的に批判し、地球の「開放定常系理論」を知らしめた。槌田の理論は持続可能な社会のあり方を検討していく上で、大元の大元。槌田の仕事はそこらのノーベル賞受賞者の仕事よりも、世界史的にみて意義のあるたいへん価値のある仕事だと思う。
槌田理論の登場は、真理の鉄槌。一部の研究者に大きな影響を与えた。NGRにも槌田は少なからず影響を与えたと聞く。
最近の槌田の(とりわけ地球温暖化に関する意見:二酸化炭素濃度の上昇は温暖化を引き起こさないとする)主張は、気候変動問題の研究者および環境活動家には評判が悪い。気候変動の専門家と槌田との公開討論では、議論が噛み合わないまま互いの主張が繰り返され、建設的な討議になっていない。そのためか、かつての槌田の仕事の評価までも下がってしまったかのような印象を与えている。
地球環境を「開放定常系」として理解すれば、人間の経済活動が“やってよい範囲”その輪郭がみえてくる。
それこそが“持続可能経済論”の基礎になる。ゆえに槌田の理論は世界史的にみて価値のある成果だと思うのだ。
文系・理系を問わず、本当に持続可能な社会への転換を模索したいのであれば、必要なことは学ぶに越したことはない。(ぼくにとっては好奇心をそそられることゆえ苦にならないのだが。)高校・大学までで個人の人生が決まるわけではないし自らを限定する必要もない。何歳になっても新しい分野、専門分野を学んだっていいし、そうした方が人生が豊かになると思う。
素人の視点をまつりあげる一部の雰囲気は、ぼくには無責任体制の継続を自ら宣言しているかのように映る。すぐ「もっとわかりやすく」と他者に求めるのはもうやめてもらいたい。権力サイドにいる人たちは、小難しい話に持ち込み、誤用・捏造・曲解・すり替えなんでもやるのだから。奴さんたちのインチキを見抜くには、自らの思考の幹がしっかり根をはるよう心がけるべきではないかと思っている。
嘘を塗り固めれば矛盾を生じ、露呈しないようその場を取り繕えばさらに矛盾が大きくなる。幹がしっかりしていれば、その矛盾に気がつきやすくなると思うのだ。
NGRの主張を学ぶことは、幹を太くすることにつながると考えている。
NGRの環境のエントロピー的解釈に誤解があったとしても、NGRが放った鉄槌は、真芯に打ち込まれたものである。芯を外してなんかいない。ぼくたちがすべきことは、細部の誤りをつつくことに血道をあげることではなく、芯を発展させていくことにある。そこには当然NGRの論への批判も含めてよい。
槌田に加え、NGRの主張を積極的に受け止め展開したのが経済学者の室田武である。室田はエントロピーとエコロジー、エネルギーに関する多数の著作を出しているので、詳しくはそれらを参照していただきたいが、導入としての一冊としては『循環の経済学 持続可能な社会の条件』(編著 室田武・多辺田政弘・槌田敦 1995年 学陽書房)をお薦めしたい。主要な点は網羅されている。ただし、NGRの巨人たちに対する批判の各論はこの本では言及がないので、やはり『経済学の神話』とくに第2章は必読。
内藤勝の『物質循環とエントロピーの経済学』(2005年 高文堂出版社)は、NGRの仕事にもちろん言及しつつ、近年の貿易量の推移と持続可能な経済規模とを比較し、またヴァーチャルウォーターなどのライフサイクルを通じた環境負荷を含めてエントロピーで論じるという総合的な入門書になっている。これもまず一冊としてお奨めしたい。
内藤の主張の節々には『国家の品格』の藤原正彦と似た臭いがするため、スイカ的(中身が赤で周りだけ緑(環境派)、種は黒(アナキスト) 失礼!!)な人たちには鼻につくかもしれないし、国家を論じるときにそもそもの近代国家の成立(小林注:国家なんてのはそもそもその成立からしてフィクションなのだ)がどこかに行ってしまっている。
が、物質的な面での筆致は優れているので薦める次第。
ぼくは環境/持続可能性という観点は、赤・黒・白(右派)、さまざまな政治思想の結節点となると考えており、忌避すべき主張ととらえていない。
環境容量を超えた経済活動を続ければ、ぼくたちの社会はイースター島と同じ末路をたどることになる。熱死ではなく、人間が持続的に暮らせる環境の死。イデオロギーは関係ない。物質的な問題だ。
NGRはずいぶん感情的な人だったとも聞くが、物質循環から経済活動を論じる際につい紛れ込みがちな感情論を排して俯瞰した哲人である。
続く、
かどうかは気分次第。