備忘として書いておく。
昨日は護憲・改憲を主張する人々が各所で集会をもった。
いま37歳だが自分の場合、憲法に関心をもったのはそう前のことではなかった。
恥ずかしながら。
自治を考えるようになって、はじめて憲法の意義を知った。30歳くらいからだ。
元々メタ領域に関心があったので、憲法学者や平和活動家の主張よりも、小室直樹氏の憲法論に惹かれた。しかし、結論は小室氏とは異なる。
幼少の頃から、小中・高校・大学と、ぼくの周りの大人から、たったの一回も憲法とは何か、なんで大事なのか聞かされたことはなかった。近所の大人、学校の教師、誰からもだ。たったの一回もなかった。
きっとマスコミからの情報としては度々見聞していたのだろうが、記憶にはまったく残っていなかった。
もはや周囲の責任に転嫁できるような年齢をはるかに過ぎてしまったので、自分が聞かされなかった分、子どもたちには意義を伝えないといけないと考えている。
それにしても、自分の周囲の大人は誰一人憲法を語らなかった。
立憲主義の国で、それは異常なことだと思う。
いまの日本に至ってしまったのも、受け入れがたいが、合点する。
以前から自主憲法制定、憲法改正という名の第二のアメリカの押し付けには当然反対だったが、護憲を主張する政党や支持者にもあまり共感をできなかったので、護憲派とみなされることに違和感をもってきた。
日本にアメリカの意向に逆らっても”自主”を貫くだけの覚悟はない。それは権力サイドの者たちも、たいていの人々にとってもそうだ。
ゆえに自主はありえない。
仮にアメリカの意向に逆らう自主を実行しようとしても、それは竹槍、特攻のようなもの。カードなしでゲームはできない。
改憲には反対なので、4、5年前から護憲運動と連携する機会が増えている。
だが、ぼくは自分は護憲だとは言わない。
自分は厳格な環境派だが、環境権など新しい権利を憲法に書き加えることも別にどうでもいい。、少なくとも現在は。
憲法に書かれれば事態が好転するなどという楽天的な気持ちにはまったくなれない。
9条2項がなくなってしまうことにも絶対に反対ではない。が、結果として絶対反対の立場にならざるを得ない。
9条2項がなくなってしまえば犠牲になる者は確実に増える。
犠牲が国内ならまだよい。変えられてしまうのも人々の責任だからだ。
結果としての犠牲は人々が受け止めなければならない。
しかし、まだ被選挙権のない世代にはそうなってしまえば申し開きのしようがない。
ゆえに反対だ。
そして、日本がアメリカと軍事行動をともにすれば、改憲によって犠牲になるのは海外の、日本の政治には直接関与できない人々である。
ゆえに絶対に改憲に反対なのだ。
参院を国民投票法案が通過すれば改憲手続き法は成立する。
しかし、改憲発議の要件となる衆参両院議員の2/3が賛成しなければ発議自体ができない。
そのためには民主党の改憲派が民主党を離脱し、政界再編が起きなければ発議されない。首相の安倍にそれだけの決意と実行力があるとは思えない。
次の参院選によって自公が参院でも2/3を超える議席を占めることも想定できない。
今回改選の参議院の議席は2001年改選組である。あの時、友人が千葉県で立候補したので手伝ったから余計に覚えているのだが、あの時の小泉首相人気と民主党の狼狽ぶりをよく覚えている。
首相の安倍に、当時の首相の小泉ほどの無党派からの支持はない。
参院の改選+非改選で自公>=2/3は考えられない。
改憲阻止の運動の目的もよくわからない。大規模な票の不正操作でもしないかぎりは。
護憲運動サイドの目的もよくわからない。
憲法/護憲に関する啓発が目的なのか、発議させないだけの要件を選挙で満たすことを目的としているのか。自公が2/3を超すことが想定できないので啓発だけで十分と考えているのか。
成長の限界/資源制約社会は確実に訪れる。
経済成長と貿易量の拡大による国家間の相互依存関係の強化によって、付録のような戦争抑止効果はいずれ破綻していく。
今年、来年のことではないが、人類史スケールでみれば瞬く間にその日はやって来る。
首相の安倍は「戦後レジームからの脱却」という。それで改憲なのだと。
一方、護憲派の大半は「近現代レジームを維持」しながらの平和主義である。少なくともぼくのみるところは。
ぼくは「近現代レジームからの脱却」と「非軍事」を併せて主張する立場をとっている。
ゆえにいわゆる護憲派ではない。が、改憲には反対する。